Aki vekklaのブログ

自分の感想や考察、考えよりも紹介した書籍を読んでもらえると嬉しいです。

 虞翻~その4 熱意と尊敬😄~

虞翻を書くのも長く4回目になりました。今回は本からの抜粋文が多いです。


正史三国志 7 呉書Ⅱ 虞翻伝 『虞翻別伝』より


ー虞翻は『易』の注釈の著述がまとまると、それを上呈していった、

「臣(わたくし)の聞き及びますところ、六つの経典の根源として、陰と陽ほど重要なものはなく・・・(略) 臣の高祖父にあたります、故の零陵太守の虞光は、若くして孟子(孟喜)の『易』学を治めーー

 このように 代々この家学を伝えて、臣にいたって五代目となったのでございます。」


この『虞翻別伝』は呉の人が書いたものではないようですが、三国志時代には書かれたようで。


虞翻は代々からの『易』学を受け継ぎ、高祖父からのふるい書物を多く所有していたようです。

老子、論語、国語に注釈を加え、世に広め教えていたようですがこの『易』学は格別だったよう。

気持ちの入りようが違う(🤭)


『易経』章・句のいい加減な注釈が我慢ならなかったのか、注釈した人物を次々と取り上げダメ出しを書きます。


以下、同じく『虞翻別伝』より


ー経書の中にあっても、その重要さの点で『易』にまさるものはございません。(略) 荀言胥(荀爽)には『易』によく通じているとの評判がございましたが、臣がその注釈を求めて読んでみましたところ、たしかに俗儒たちの説をこえるものではありますが、・・・意味を反対に取りちがえ、いうところがまったく理解ができません。ー


ー孔子は『易』を称賛されて、『変化の道を知る者は、神の為すところをも知ることができるのだ』と申してはおられますが・・独創性を賛美したものだと考え、その部分を前に出して首章に置いたりしたのは、特に奇妙で笑うべきところでございます。ー


ーまた南郡太守の馬融は、俊才だとの評判がございましたが、その解釈の内容は、荀言胥(爽)にも及びません。ー


ー北海の鄭玄や南陽の宋忠はともうしますと、・・・宋忠は鄭玄にいささか劣り・・世間に発表するには問題があるものでございます。ー


虞翻はこの人のここの解釈がダメですとつらづら🖊️書いています。

※ここに出てくる人物たち 荀言胥(爽)、孔子、馬融、鄭玄はよく知らないので後に調べてみます。


筆🖌️(気持ち)がのってきたのか、まだまだ続きます😁

『虞翻別伝』より


ーまた鄭玄の『尚書(書経)』の解釈で誤りのある項目を列挙して上奏していった、「・・・北海の鄭玄が注釈いたしました『尚書』を見ましたところー古い字体が似ておるところから、・・校定を加え字を正しておらぬばかりか、それを杯と訓じて、酒杯のことだと申しておりますー(略)」


このように虞翻はこのあとの文にも、文字の誤り、正すにしても何の根拠もなく作りかえ、誤った解釈を適合している!と鋭く指摘してます。あまりにも長いので書きませんでした😁💧

馬融の注釈は鄭玄の解釈よりは勝って(的はずれだが)おるとか、いまこれを正しておかねば臣(自分)が死にましたあと、これを正そうとする者がないのではないかーとか、鄭玄が注を加えました五経の中で意味をひどく取り違えている例が百六十七条に及ぶと。


虞翻は自分がこれを正すのは、誤りがこのまま学校で教えられ、将来に伝えられてゆくことが恥ずかしく思う。と気持ちを書いて上奏したようです。


以前の記事で自分は虞翻をツンデレ?と書きましたが、根っからの学者気質なのだと思いました。

気持ちの入った熱意は本物です。(それは尊敬できるな)


最後に虞翻はこのように言っています。

ー「人と折り合えぬことのできぬ性格で、生まれつき人に取り入ることなどできず、主君のご機嫌をそこねて罪を獲、永久に世界の果ての海辺に埋没せねばならぬわが身が恨めしい。生きていても共に語るべき相手はなく、死んでも青蝿しか弔いに来てくれるものはない。もし天下に一人でも自分のことを知ってくれる者がおれば、思い残すこともないのであるが。」古典の書物によってみずからを慰め、『易経』に則してそれぞれの原理がいかに事象に表れるかを定めて、吉凶を占った。ーと。