虞翻 その2 ~一族と学問~
❮続きです❯
虞翻は交州に強制移住した後、学問教育に励み70歳で亡くなります。
その後子どもや子孫(族子)は、呉の揚州に戻ることができたよう。
虞翻の息子は11人(記録上)いました。名が最も知られていたのは四番目の虞汜ですが、その弟の虞聳や虞忠、虞ヘイも名が記されています。
6番目の息子である『虞聳』。彼は政治家として晋の時に河間国の相に任じられます。
彼は一族の虞察に手紙を送り「人物を抜擢する際しては、まだ人に認められておらぬ者や、優れた才能を持つ者を抜擢したい」要約するとこんなことを送っています。
この虞察は虞翻の11人の息子のうちの子であり、虞聳と虞察は叔父の関係だったよう。
虞察は晋の政治家、武将でありましたが西晋には仕えず郷里に戻って、子どもたちの教育に注いだようで彼の息子の1人がある発見をします。
その名は『虞喜』ーぐきー
晋(東晋・300~350年)の天文学者・歴史学者で、『安天論』・『志林』の著書。
彼が発見したのは ❮歳差❯ です。正しくは気付いたというのが表現としてあってるかも。
この歳差具体的にいうと、今夜空に見える北極星の星が、将来1000年以上先には北極点よりズレ他の星が北極星となるとのこと。今の北極星がこぐま座の星なら、1000年以上先ではこと座の星が北極星となる。
どうしてこういった現象が起こるのか詳しくは〈国立天文台・NAOJ〉のホームページで分かりやすく載ってます。自分で調べてみたところこれが一番分かりやすかった😁💧
虞喜に戻りますが、彼はこの歳差に気付き、『安天論』で「宣夜説」を唱えました。
宣夜説とは宇宙は型があるわけではなく、ただ永遠に広がる虚無である。と提唱し、通説であった「蓋天説」や「渾天説」を批判します。
ちなみに彼の大叔父の虞聳は「天は鶏卵のようなドーム型をしている」と「穹天説」を提唱していて、虞喜は反論しています。
この『安天論』は浸透せず次第に忘れさられましたが、虞喜が発見した❮歳差❯はのちの南朝の数学者、祖沖之が編纂した大明歴(510~589年まで)に取り入れられました。
虞喜は西晋、東晋の帝から任官するように詔が出たようですが、いずれも辞去し、学問に親しみながら76歳で亡くなります。記録上、子どもはいなかったよう。
虞喜のような人物を知ることができて良かったです。呉の陸氏は呉の滅亡後も有名ですが、呉で仕えた虞翻の一族も後に学問によって名を残した。
それが、虞翻の熱心だった『易経』と学問教育だったなら凄い人物だと思う。
以下参考資料
正史三国志7 呉書Ⅱ 虞翻伝
Wikipedia
国立天文台~NAOJ
孔子の見た夜空 古典詩文の星を読む 福島久雄著
はじめての三国志
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