虞翻 その1
虞翻
癖の多い呉の人物の中で、必ずや上げられる人物。(個人の思い込みです)
若いときから学問を好み、特に『易経』を良く研究していて、孔融もその内容の素晴らしさを称賛しています。
が、性格は・・自分が正しいと思ったことを遠慮せず押し通すようで、「主君の孫権にも逆らって諫言をしたり同僚や周りの人とも協調できなかった」と正史三国志にて記されるほど。
そのために罰として左遷されました。正史三国志ではこのような強制移住は2度あったようです。
1度目は、丹陽郡の涇県に強制移住。
しかし、呂蒙の力添えもあり許され復帰することに。(呂蒙はこの時病気のため、医療に詳しかった虞翻を自分のそばに付き従わせることで取り成した)
ここで従来の性格を抑えれば良いのに、とんでもないことをする虞翻。
于禁が降服し、捕虜として呉に来た時 孫権は自ら自分の馬と並べて歩ませようとした時に、
「降服者のおまえが、なんでわが君と馬首を並べたりするのか」と言い、鞭を降り上げ打とうとしたり、
←おいおい(ノд`;) (孫権は大声でそれを止めさせた)
蜀から降った糜芳に対しても
「忠と信とが守れないのに・・・・将軍だなと名のってもよいものであろうか。」と大声で言ったり、
「・・・ものごとの正しいやり方が分かっておるのか。」と辱しめたりと。
また、孫権に対しても酒の席での一悶着や、張昭との議論(←神仙はいるかどうか・・雑談っぽくって(*´∀`)♪)に割って意見したり。←←年齢をいじって張昭を辱しめてる。
そのためまたまた、強制移住に。今度は交州へ(前は呉の領内でしたが、陸での島流しのように思える)
その後、復帰することはなくおよそ70歳で亡くなります。
交州へ強制移住になっても学問教育に励み、門生や子どもたちに教え、
『老子』、『論語』、『国語』に注釈を加えて学問に勤しんでいたようです。
もちろん、彼の大好きな『易経』も注釈を加え書を完成させました。
教育や学問に勤しんでいた虞翻。彼の子どもや子孫に宇宙科学的に凄い発見をした人物がいるのですが。
また後に。
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